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特集

【BFI】バリアフリーインタビュー① :車いすテニスプレーヤー 河野直史さん

みなさんこんにちは。
新企画第1弾「まちづくり応援シリーズ」に続き、第2弾は「バリアフリーインタビュー」です。愛媛県内外で活躍する車いす当事者や福祉関係者等へのインタビューを行い、それを通じて「バリアフリー」とは何かを深掘りして行きたいと思います。

なおこのコーナーでは、出来る限り福祉の専門用語は使わないことをモットーにお伝えしたいと思います。


記念すべき第1回のバリアフリーインタビューは、現在車いすテニスプレーヤーとして県内外で活躍している河野直史さんにインタビューを行いました。

河野さん(西予市野村町出身)は、現在大日本コンサルタント株式会社のアスリート雇用で車いすテニスプレーヤーとして活躍されています。試合や合宿などの際には現地に行かれるのですが、普段は愛媛県内で練習をしています。今回愛媛車いすテニスクラブでの練習前に時間を取ってもらいインタビューしました。

さて、河野さんは一見して分かると思うのですが、筋肉モリモリ。腕はとても太く誰かの太ももぐらいありそう。一体どんな練習をしているのだろう?もしかすると車いすでバーベルなどあげているのだろうか?と思い聞いてみました。

どのくらい練習しているのですか?

ほぼ毎日しています。水木土は愛媛県車いすテニスクラブでメンバーと練習。月火金はテニススクールに車いすテニスクラスがあるのでそこでレッスンを受け、その後自主練をしています。日曜日は練習することもあれば、オフにして体をやすめることも。

(ガタイがすごくいいのですけど)筋トレなどはどのように?バーベルとか使って?

体幹トレーニングなどは行っていますが、バーベルをあげているわけではありません(笑)小さいころから車いすを使っているので自然に体格がよくなったんです。

いつから車いすなのですか?

3歳のときから。骨形成不全(骨が折れやすい病気)として生まれ、3歳の時から車いすに乗っています。

では野村町の坂道を車いすで移動するから体格がよくなった?子ども時代どのように過ごしたのでしょう?

小中学校時代は松山市本町にあった整肢療護園で生活していました。高校になって野村町に戻りました。小さいころから何かスポーツがしたいと思っており、高校生の時に車いすマラソンというものがあることを知り、車いすマラソンを始めました。

休みの日には野村町を(マラソン用車いすで)100キロぐらい走ってましたね。

(トラクターを追い抜くこともしばしばあったそう(笑))

あと高校時代は家から学校まで10キロぐらいあり、往きは車で送ってもらい、帰りは途中に親の職場があったので、そこまで(6,7キロ)は車いすで移動、そこから車。真面目だった(?)ので毎日教科書を詰めた鞄をもって車いすで移動してました。時々軽トラのおっちゃんから「どこそこの〇〇君じゃろ。乗っけて帰ったろか?」と声かけられながら。

子ども時代の苦労話(今は笑えるもの)ってありますか?

骨折しやすい病気なので、年2回ぐらい骨折してました。それも遠足前とか、夏休み前、運動会前に骨折するんですよ。きっと浮かれていたのでしょうね。骨折してギブスをはめて…。

車いすでマラソンしたり、登下校したりしていたから体格よくなったんだ。

それもありますね。でも車いすマラソンは、野村町だから道路を走れたんですよね。(大学生となり松山にまた戻ってきたのですが、)松山では道路を走ることは(交通量からして)不可能なので止めました。

それでテニスを始めた?

テニスを始めたのは、大学時代20歳の時。1回生の冬から。たまたま愛媛県身体障がい者センターの近くに住んでいて、そこで車いすの人たちがテニスをやっているのを見て、自分もやってみたいなと思っていたら、ある時車いすテニスをやっていた人から「やってみないか?」と声をかけられたのがきっかけ。

ちなみにバスケも考えたけど、バスケは接触プレーもあり(自分は)骨折しやすいため止めました。 

試合等で他県に行くことも多いと思うのですが、他県と比べて愛媛(松山)のバリアフリーはどうですか?

毎回(公共の交通機関を使うのは面倒なので)ほぼ車で移動しており、現地のホテル(宿泊所)と会場の往復がほとんどなのでよく分からないですね。

毎年この時期(8月前半)には仙台で大会があるのだけど、コロナのため中止となっている(今年は10月に延期)。いつも試合前後に合宿を加えて出かけるのだけど、その時も松山仙台間片道12時間かけて往復してます。

一度到着後すぐに練習があり、さすがにその日はコテンパンにやられましたが、翌日はきっちりリベンジしました!

他県と比べて愛媛(松山)のいいところは?

大学生のとき街に近いから移動等は便利だった。小中学生の頃は低床電車が少なく、乗りたくても電話で遅くとも前日までには何時の電車に乗るからと予約しないといけなかったけど、現在は低床電車も多く(すぐに乗れるので)便利。

野村町はそもそも車がないと移動そのものが厳しかったけど、高齢者が多かった為か建物はバリアフリー化されていた(スロープが設置されていた)ので、それほど不便を感じなかった。松山の方が土地の関係から設置されていなかったりするので大変。

ところで河野さんは以前からボランティアで視覚障がい者のスポーツサウンドテーブルテニス(STT)の審判をしています。ボランティアをする意味とは何か、バリアフリーとも何か関係があるのかを知りたかったので聞いてみました。

STTで審判のボランティアをしていますがそのきっかけは?

大学のときボランティアサークル「すくすく」に所属しており、そこでSTTからボランティアの依頼があり、それ以来ずっと。

すくすくに入ったきっかけは、車いすの先輩が所属していたので。それと高校時代車いすマラソンしていた時に、道に落ちていたごみが気になり、時々ごみ拾いをしていたこともあったので。

サークルではどのようなボランティアを?

イベントの準備や司会、中島トライアスロンの交通整理、朝のごみ拾い、障がい者の事業所で1日利用者と一緒に活動するなど。年間で60回ぐらいボランティアに行ってました。STTのボランティアは1回生の夏ぐらいから。

河野さんにとってボランティア活動とは?

サークルで「ボランティアとは何か?」よく議論していたんですね。そうすると議論が尽きないんですよ。でも最終的には自己満足かな。人のためにやっていることに自分が安心できる。他人のためやっているということもあるけれど、それでは(長くは)続かない。なぜならボランティアは(自分の時間や労力を割いたりで)しんどいものだから。だから突き詰めると自分自身の満足になる。やっていることに満足できるからボランティアができる。

(サークルで)大学生は何の為に生きているのだろとか考えるんですよ。そこでボランティアをやるから社会とつながることができる。なので自己満足となるのかな。

ということで、以外にも(?)学生時代にボランティアサークルに属していたとのこと。ボランティアの意義等について語ってもらうとどんどん奥深く、哲学議論にも発展しそうです。ただ今回はバリアフリーが目的なので…。

イベントの準備ってどんなことを?

何でも。会場設営の手伝いだったり、例えばパイプ椅子を運んだり。
イベント準備のボランティアに行くと最初は驚かれるんですよ。(車いすの人が)会場設営を手伝うと言っても、何をしてもらえばいいのだろう?と、だから最初は「いいよ、いいよ。見ているだけで。」とか言われる。でも最後は「河野君あれ持ってきてくれる?これやっといてくれる?」となる。

だから障害者がボランティアとして参加しても、驚いたり、遠慮したりしないで、どのようなことが出来るのか聞いて欲しい。何ができるのか当たり前に聞けるようになればいいな。

障がいがあっても出来ることを当たり前にやる。それを周りも当たり前に、自然受け入れる。そうなるといいですね。でもそういう場所に、身近に、(障がい者が)いないから分からないのでしょうね…。

STTの代表とは10年来の付き合い。最初は僕も視覚障がいの人たちに対してどうしたらいいか分からなかった。

初めSTTに行ったときにはボランティアなど誰もいなかったけれど、(今は数多くのボランティアもいる。)代表も頑張っているので今もボランティアを続けている。それに現在もサークルの後輩たちが参加してくれている。そこでできた人間関係もあり楽しくて、ずっと続けてます。

大切なのは視覚障がいとひとくくりするのではなく、障がいも一人ひとり違うので、一個人として捉えること。障がいがあろうとなかろうと、一個人として普通に付き合えること。

河野さんにとってバリアフリーとは

その人が困っていると思わなければ、そういう環境や状況が作れたらバリアフリー。健常者(一般の人)と同じように生活できる。

そのためハード面のバリアフリーもあれば、声をかけやすい、手伝ってもらえるという(ソフト面の)バリアフリーもある。

ハード面で段差などのバリアがあっても周りが気軽に手伝ってくれたらいい。その点松山はまだ声かけにくいのかな~???(他の地域がどうか分からないけれど周りもあまり積極的ではないような???) 

以前タイに行ったとき、物理的なバリアはたくさんあったけれど、多くの人が(自然に)声をかけてくれ手伝ってくれた。それも彼らは下手に手伝わないし、必要な時自然にフランクに声掛けしてくれる。

日本人は困っている人を見て、意を決して「何か手伝いましょうか?」という感じだけど、海外の人は本当に自然にフランクに声をかけてくれる。日本もそうなればいい。

今後望むことは?

障がい者をもっと身近に感じられるようになればいい。そこらへんにいても当たり前に感じる。(けれども実際は)今でも車いすがいると珍しく見られることもある。そしてそういうのが嫌だと思う障がい者もいる。(そのためにあまり外に出ない。)

イベントに障がい者も当たり前に参加している。そのためには障がい者自身も積極的に活動すべき。

今後目指すところは?

最終目標はパラリンピックに出場すること。現在世界ランキング93位なので(これまでの最高75位)、出来る限り早く50位以内に入る。そうすれば強化選手となれる可能性が高くなる。

オリンピックパラリンピックで障がい者スポーツもメディア等での露出が増えてきた。このままもっと身近になればいい。

自分自身テニスを通じて、スポーツとしての魅力を伝えたい。障がい者が頑張っている姿ではなく、アスリートが頑張っている姿を見せたい。障がいがあるのに車いすに乗ってテニスして偉いよねではなく、車いすテニスってこんなスゲープレイがあるんだというところを見せたいし、見て欲しい。

数年前の愛媛国体(全国障がい者スポーツ大会)のころからトップ選手が出るときアスリートとして扱ってもらった時はよかったと思う。一人のアスリートとして捉えられていると、社会は進んだのかなと思える。

最後に車いすテニスの見どころを教えてください。

チェアワーク。普通のテニスはワンバウンドまでだけど、車いすテニスはツーバウンドまでOK。ツーバウンドになると戦術が増える。普通のテニスとは違う戦術がある。

普通の人が見ると、車いすでそんな動きができるの!?という動きがある。あのボールに追いつけるんだ。そこに打てるんだ。そんなところを見て欲しい。

だから僕らもへたくそなプレーはしてられないし、責任とプレッシャーもある。アスリートとして認められるよう日々練習をしています!!

河野さん、ありがとうございました!!

インタビューの後練習風景を見ていましたが、この日のコートの気温は37度以上。湿度が低かったのでまだ過ごしやすかったのですが、それでも立っているだけで汗が流れてきました。そのような中で河野さんはコート上を右に左に車いすをコントロールし、ボールを追っていました。見ているといとも簡単に反転したり、回転したりしているのですが、もし実際に(自分が)やるとなるとすぐに引っ繰り返ってしまうんでしょうね。

誰もが彼を、あるいは彼らを一人のアスリートとして認めたときに、ひとつのバリアフリーが切り開かれるのかもしれません。ビバ河野さん!


第1回目のバリアフリーインタビューはいかがでしたか。河野さんがボランティア活動をしていることもありバリアフリーとは何かがいろいろな面で見えたのではないでしょうか。

今後もいろいろな人へのインタビューを通じてバリアフリーとは何かを多角的な視点から深めていきたいと思います。それらを通じて障がいがあろうとなかろうと、誰もが共生できる社会への一助になればと思います。


2021年(令和3年)8月

インタビュー&記事作成:Eikyo