【SWI】そらいろのたね店主 野中玲子さん~前編~
#子育て支援 #シングルマザー支援 #子ども食堂 #人生物語
目次
ソーシャルワーカーインタビュー
バリアフリーというと、基本的に障害のある人々が抱えるバリアを解消するという意味で使われますが、おでかけイーヨでは少し幅を広げて、社会的課題や福祉的な社会問題をバリアとしてとらえ、そのバリアを解消することを「バリアフリー」としてとらえたいと思います。
そして社会福祉の課題に関わる人をソーシャルワーカーと一般的に呼びますが、おでかけイーヨでは、社会的課題や福祉的な社会問題、いわゆる社会的バリアの解消(フリー)を目指す人をソーシャルワーカーと呼ぶことにします。
そこで今回から新しい企画「ソーシャルワーカーインタビュー【SWI】」と題して、社会課題を解決しようと奮闘する人々へのインタビューを行い、その人が現在取り組んでいる社会課題(バリア)の状況やその解決に向けての活動等をお伝えできればと思います。
そらいろのたね店主:野中玲子さん
ソーシャルワーカー・インタビュー【SWI】:記念すべき第1回目は、現在
・シングルマザー交流会松山代表
・まつやま子ども食堂代表
・よろずやカフェそらいろのたね店主
である野中玲子さんに登場していただきます。
ここ数年新聞等で女性問題や子ども食堂に関するニュースで彼女の活動がしばしば取り上げられているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか?現在彼女は愛媛で社会問題の解決に取り組む第一人者に上げることができるとおもいます。
今回野中さんへのインタビューを前編後編の2回に分けてお送りします。前編ではシングルマザー支援の状況やコロナ禍での活動についてお届けします!
シングルマザー支援とは
現在の活動状況を教えてください。
シングルマザー支援とその家庭の子供たちの支援がメインです。お子さんがいなくても女性の支援、時には更生支援など多岐にわたっています。個人よりの任意団体なので基本お断りをしないことにしています。
(私のイメージとして)子ども食堂の野中さんという印象が強かったのですが、シングルマザー支援の活動の一つとして子ども食堂があるのですか?
シングルマザーの支援団体に関わり16年、代表となり10年。子ども食堂が6年目ですね。シングルマザー支援の下地があったからこそ、子ども食堂をやりたいと思いました。
シングルマザー支援を始めるきっかけは?
私自身が16年前に離婚しシングルマザーとなったんです。今も多少はありますが、16年前は、まだ離婚はとても恥ずかしいことであり、後ろ暗いネガティブさが今以上にありました。「シングルマザー」という言葉も今のように使われておらず、「母子家庭」とか「片親」という、言葉だけでスティグマになるような状態だったんです。
離婚する前後は右も左もわからなかったし、シングルマザーの先輩がいたら聞きたいことが山ほどあったんです。子どもを連れて離婚するにあたって、離婚までに必要なことや今後のこと、行政の手続きのことなど、わからないことがたくさんありました。けれど、周りを見渡しただけではわかりませんでした。みんな、離婚したことはできれば隠したいと思っていたと思います。「あそこどうもお父さんいないみたいよ」とか、「〇〇さんとこ離婚したみたいよ」とか、噂レベルでしかわかりませんでした。
今なら平気ですけど、当時は私もまだ若く、その噂だけをもとに母子家庭なんですか?と聞きに行く勇気もありませんでした。離婚届けを出した後にも手続きのために家庭裁判所に行ってとか…全部自分で調べないといけなかったり、事前にわかっていたら2度手間にならなくてすんだりしたこともたくさんあったんです。
ちょうどそのころ東京のNPO法人「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」から講師を招いて、シングルマザーの現状や将来設計などについての講演会を開いた方がいらして。その人が松山にもこういう場所があるといいよね。一緒にしない?と声をかけてくれました。そこで設立の段階から関わって、その後代表となりました。
せっかく経験したことを無駄にせず、この団体の立ち上げに関わって、これから離婚を考えている女性たちに伝える側となって、横のつながりを作っていくことができたらすごくいいなという思いがありました。
また、当時はシングルマザー同士であることが分かっても、「ええやん、養育費もらってるんやろ。うちはもらってないよ」「ご両親が子ども見てくれるやね。うちは実家が県外やから頼れんし」など、不幸自慢で対立しあう、ネガティブなマウントの取り合いのようなことが起こるのも気になっていました。
そうではなくて、お互い、シングルマザー同士でしか分からないこともあるし、補い合える関係でつながれる場があったらいいなと思って…。それが原動力ですね。
当事者会の活動はどのようなもの?
設立時から例会をしており、最初は月1回でしていたんです。その時々によるけれど、少ない時はスタッフだけで「誰も来なかったね」とお茶を飲んで帰る時もあれば、多い時は7,8人が来ます。
最初はみんな恐る恐る来ていたけれど、2時間フリートークを行い、帰るころには来てよかったと言ってくれます。
どんなに仲の良い友達でも、やはり家庭がある友達とは共有できないことがあるし、言葉の裏を勝手に読んでしまい傷つくこともあります。けれどもここの人たちとはそのようなこともなく、こんなに素で話せたのは初めてですと涙ながらに言われる人もいます。
以前はハーモニープラザで行っていましたが、5年前に「そらいろのたね」をオープンしてからは、ここで開催しています。子連れで来る方がほとんど。ついてきている子どもたちは大体小学生ぐらいまでです。それより大きい子はお留守番ができますから。
大人のテーブルと子どものテーブルを離しているけど、本当は子どもたちに聞かせたくない話も出てきます。別の部屋があればいいのですが…。でもその中で子どもたちの仲良くなり具合がすごくスムーズなんです。
子どもたちも敏感だから、もしお母さんが緊張してたら、その子たちも身構えるだろうけど、お母さんが心を開けていると思うのか、すっと仲良くなる。今日初めて会ったにもかかわらず大きい子が小さい子の面倒をすごく自然に見始めたりする。
お母さんたちが隣で泣いたり笑ったりしている横で、子どもたちは子どもたちの社会を構築している。なかなか他では見ない光景です。
(同じ境遇のお母さん同士による)ピアカウンセリング効果で、お母さんたちが精神的に楽になり、子どもたちもそのことを敏感に感じているのかもしれないね、とスタッフで話します。
両親の離婚による一番の被害者はもちろん子どもたちです。母親は離婚したことで多少すっきりしていても(笑)、子どもから父親を奪ってしまったという大きな罪悪感を抱えている。子どもたちもお父さんの話題、父の日とか、父親参観日の日とか、そういう日常行事などに、大なり小なり傷ついているんです。
けれどもここではお父さんの話しをしなくていいし、「お父さんのいないのが普通」の中にいられる。そういうことがある程度事情が分かっている子たちにとってはそういうところに居心地の良さを感じていたのかもしれないですね。
子ども食堂を始めた理由
十数年にわたりシングルマザー支援を続けてきた中で子ども食堂も出てきたことなのですか?
私自身、離婚後に子どもに一番申しわけないと思っていたのはイベントの日なんですね。誕生日とかクリスマス、節分、こどもの日とか。このあいだまで父親が一緒にいたのに…。うちは子ども2人なんですが、3人でそれらのイベントをするようになり、すごく寂しいと思わせているだろうな、日々のごはん食べるのも4人だったのに、とか。
運動会のお昼の時間なんかも離婚直後は辛いんですよね。去年までは父親もいっしょだったって記憶がリアルにありますから。日常でわいわいと大人数で食事をする機会もぐっと減ってしまって…。うちは元夫の両親とも仲が良かったので、(元)夫の実家で週末にごはんをいっしょに食べるも多かったんです。それがそういうこともなくなって、毎日毎日3人で食事をするようになったので。
外食をしても、周りはみんな「お父さん」と「お母さん」が揃っている家族連れのような気がして、もちろん、そうばかりではないのですが、被害妄想っていうんでしょうか。自分の家族だけが足りてないような気がして、離婚後は外食に行けませんでした。
そんな生活を経て、だんだん3人の生活があたりまえにはなりましたが、7年くらい前に東京で子ども食堂が始まったことを知りました。離婚後の子どもたちへの罪悪感や心細さを思い出しながら、家族じゃなくても、他人どうしても、みんなでわいわいとごはんを食べるようなことが月に何回かでもあったらうれしいしいかも!と。
母親って朝から晩ごはんのことがどこかにあるんですよね。朝ごはん食べながら、仕事しながら、「晩ごはん何にしよ?」って。それが私にはとても苦痛で。だから子ども食堂を月1で始めたんですが、月1回でも晩ごはんのことを考えなくても済むなら、私だったらすごくうれしい!と思いました。
でも当時は「子どもの貧困」と抱き合わせでの報道が多く、そういう周知になることは、すごく危ういなと考えていました。子ども食堂に行っている子ども=貧乏な家の子、となりかねない。そんなところに誰が来ますか?裏口からこそこそっと入って来ないといけない。そこが気がかりなところでした。この数年で、子ども食堂=居場所というようなイメージになってきていると感じているので、ホッとしています。
それまでも「困ったことや気になることがあったら話しに来てね」という声掛けをしてきましたが、見ず知らずの人にいきなり相談することはハードルは高いみたいで・・・。どうすればシングルマザー支援を広げていくことができるか、ということをずっと考えていました。
そんな時に「子ども食堂」という活動が生まれたことを知り、これなら「ごはん食べにおいでや、一緒に食べよや」という声掛けならハードルが下がるのでは?「これだ!」と思いました。
お母さんに毎月1回でも何も考えなくてもいい日を作りたいし、外食も一切しない家庭も多いし、いろんな人と一緒にごはんを食べる機会があればいい。お母さんと子どもだけの食卓にいろいろな人が加わることによって多様性が生まれ、子どもたちの経験値も上がるだろうし。
実際に好き嫌いを克服した子どもを何人も見てきました。いつも遊んでくれるお兄さんやお姉さんから「これ美味しいって!」と勧められたら、魔法がかかったように、今まで嫌いだと思っていたものが「あれ?食べられるかも!」となるんです。
ほかにも、お母さんの言葉には反抗しても、よそのお母さんに言われると素直に聞けるということも。お母さんたちも、我が子にはキツく言ってしまうことも、よその子には優しく注意できたり。きょうだい間でもそうです。自分の弟妹にはヒドイけど、よそのちっちゃい子にはめっちゃ優しくできたり。定期的に顔を合わせるたくさんの家族が、ひとつの大家族のような感じで時間を過ごせる場所になっています。
あとは、当時愛媛にはまだ子ども食堂がなかったので、「どうせ始めるなら一店舗目を目指したいな」というのもかなりモチベーションになりました(笑)。
では、子ども食堂でよく言われている、「子どもの貧困」ということを対象にしたものではないのですね。
そういう一面ももちろんあるけれど、でも、それだけではありません。みんなとつながるためのいいツールを見つけたなという感じだったですね。
パンデミックとジェットコースターな日々
2020年にコロナが始まり、いろいろな場所が、公園までもが閉鎖されました。そんな中でも子ども食堂を開け続けていたのは?
一斉休校が決まった時に何人かのお母さんから悲鳴が届いたんですよ。高学年なら家に置いて仕事に行けたとしても、低学年の子をひとりで置いては行けないし…。
「仕事を休んだら生活できません」
「一体どうしろというんでしょうか」と。
シングルマザーは経済的にスレスレのところでやっている人も多く、給食なども就学援助で無料となっている世帯もある。家にいるということは、食費も余分にかかり、光熱水費も上がることになる。経済的な負担増加もシングルマザー家庭を圧迫することになることは容易に想像ができました。
さあ、どうしよう???
と、2日ぐらいしか考える暇がなかったけど、「よし!居場所のない子どもたちを受け入れよう!ここでやらないとこれまで何のために私はやってきたのだろう?」と、とにかく見切り発車で子どもたちの受け入れを決心しました。
子ども食堂は、清水ふれあいセンターで6年前(2016年)の4月に始めており、そらいろのたねではその1年後に始めていたんです。一斉休校と時を同じくした3月からふれあいセンターでは飲食を伴う活動ができなくなったけれど、そらいろのたねでは続けていて、受け入れをできる環境はあったんです。
その頃には、まわりの子ども食堂が次々と活動休止になっていましたが、うちは平日子どもたちがずっといるのに、子ども食堂だけしないってのも変よね、してもいいよね、そもそもコロナの怖さよりも、子どもたちの精神面のほうが心配。コロナより先に心が死んでしまうほうが怖いわ!と思ったんですよ。
手ぶらで放り込んでもらったらお昼ごはん食べさせるよ。おやつも出すし、遅くなるなら晩ごはんも食べさせれるよ。ということで平日の子どもたちの受け入れから始めました。
人数が少ない日はお弁当を詰めて、海へ行ったり城山へ登ったり、近所の愛媛大学のキャンパスへ遊びに言ったりもしました。
当時は一般営業もしつつ子どもの受け入れをしていたのですが、もちろん感染への恐怖もありました。3月頃ころは、学生街でもあるこの近辺は、学生さんの移動が多くて、県外の車が行き来し、一見さんの利用が増えていました。連絡先も分からない人にコロナを残されていかれたら困るな、と。子どもの安全を守ることが第一ですから、リスクを考え、一般営業をやめたんです。そうして一斉休校が終わる5月末まで、子どもの受け入れだけのために店を開けていました。
ほかに怖かったのは、嫌がらせのようなことが起こらないか、ということでした。子どもが毎日お店の前でワイワイと縄跳びをしたりボールで遊んだりしているわけで。そのうち怪文書みたいなのが投げ込まれたりするのではないか?と気を引き締めていたけれど、一切なかった。「ご近所さん、鉄砲町にはいい人しかおらんのやなぁ」としみじみしました。
ほんとに、電話一本なかったです。結構当時はマスコミとかにも取り上げられたので、調べたらすぐわかるから嫌がらせの電話とかがかかってくるかと覚悟もしていたのだけど、一切なく、ご支援の方が多かった。
そのころも高校生などのボランティア来てくれていたの?
当時高校は外部との接触を禁止としていたので、それはなかったけど、社会人の知り合いに声をかけたら何人も来てくれて、とても助かりました。その際におもちゃの寄付を持って来てくれたりして…。
仲間や共感者によって助けられた。
それによって励まされましたし、それらの助けによって乗り越えることができました。
国から10万円の一律給付がありましたが、その直後は10万円をまるまま持って来てくれた人が何人もいたんですよ。基本的に高齢の方でしたが、自分たちは年金生活で普段の生活に困ってなくて、コロナになっても生活は変わらない。政府に対して給付金への疑問はあったけど、この10万円を受け取らなかったら国庫に返され、何に使われるか分からない。それは腹立たしいので、(10万円を)受け取り、自分が納得できる活動をしているところに使って欲しいと思い持って来ました、と。
中には夫婦で20万円持ってきてくれた方もいました。その他にもコロナでみんな大変な中で、10万円のうちの〇万円を寄付に、と持って来てくれた人が大勢いました。だから当時はありがたさに何回泣いたか分からないです。
「せめてお名前を~」と言っても、高齢の男性は「名乗るほどのものでもありません。」と帰って行かれる方も多く、背中に向かって「ありがとうございます」と泣いていました。
ほんとに当時はいろんな感情がごちゃ混ぜでした。一般営業もしなくなって、我が家の収入はストップして自分自身の経済的な不安はあるし…。
でも子どもたちは行くところはない、お母さんは困っている…。子どもたちといるのは楽しいから、もうその享楽だけに身を任して日々過ごそうか…?
ただただ目の前のことに対峙するしかなかったです。
そんな中でそういうふうにたくさんのご寄附もあって活動ができる、というジェットコースターのような日々でした(笑)
いかがだったでしょうか?
実は私は野中さんのことを知ったのは10年近く前。彼女が独立して子ども食堂を始める前のNPO法人に勤めて頃でした。その数年後に子ども食堂を始めたことを知り、更に新聞記事でシングルマザー支援をしていることも知るのですが、それまでずっと子ども食堂がメインなのだと思っていました…。
また子ども食堂を始めた理由は、子供の貧困が盛んに言われだしたころで、それが一番の理由だと思っていました。けれどもそれはあくまでも理由の一つに過ぎなく、メインはシングルマザー支援であり、その根本には女性問題の解決であること(←後半のインタビューで!)を今回初めて知りました。
コロナ禍でもなにもかもがクローズされていく中で子ども食堂を続けて奮闘いることをニュースで知り、彼女の心意気に、「さすが野中さん!やっぱり違う!!」と思っていましたが、そんな彼女に共感して多くの人々が手を差し伸べたことを知り、まだまだ社会も捨てたもんじゃないなと思いました。
次回は後半戦のインタビューをお送りします!
インタビュー:2022年(令和4年)6月
聴き手:Eikyo